日本呼吸器外科学会学会のあゆみ

日本呼吸器外科学会が日本医学会加盟したことの意義と当時の状況

人見 滋樹 (京都大学名誉教授)

1 日本呼吸器外科学会設立前の閉塞感

1983年秋に第36回日本胸部外科学会総会を京都大学寺松孝名誉教授(停年前年に退職されていた)が開催された。寺松会長は会期中のある夜に、胸部外科学会の会員の中で呼吸器外科を専攻している者、約30名を招集され、呼吸器外科専門の学会を設立しようと呼びかけられた。強力な賛同が得られたが、一部の心臓外科医や呼吸器外科と心臓血管外科の両方を行っている大学の教授の一部から、胸部外科学会への分派活動であるとの強い批判があり、呼吸器外科を独立させるなどは、屋上屋を重ねることになるとの意見も聞かれた為に、最初は学会としてではなく研究会としてのスタートとし、翌年の1984年に東京京王プラザにて、第1回日本呼吸器外科研究会が寺松京大名誉教授の主催の下で開催された。
当時の呼吸器外科医は胸部外科学会の中で、閉塞感に悩まされていたので、自分の専門領域の研究会(後に学会)が発足したことを自分の土俵を得た思いで歓迎したのである。
翻ってみれば、1948年に日本胸部外科学会を発足させた外科医(青柳安誠、河合直次、宮本忍、長石忠三、篠井金吾、鈴木千賀志、武田義章、卜部美代志、横田浩吉)は殆んどが呼吸器外科医であり、第1回総会の演題24題全てが呼吸器外科の演題で、第2回は76題の内、75題が呼吸器外科、残りの1題が乳腺外科であった。心臓外科の演題は第4回に初めて3題が見られたのである。その後、次第に心臓血管外科が学問面でも臨床面でも発展していき、1972年には日本心臓血管外科学会が発足した。
日本胸部外科学会でも心臓血管外科が主流となっており、1984年当時では、会員数、演題数、会長の順番が巡ってくる率(数年に1回)など全てにおいて、呼吸器外科はマイナーとなっていた。そのような時に呼吸器外科学会を発足することが出来たのは、時の日本胸部外科学会の会長の寺松先生の決断と、当時の呼吸器外科医が抱いていた閉塞感から脱却したいとの皆の情熱のなせるものであったといえる。

2 社会的認知、専門性の認知ーー日本医学会加盟

専門性の高い学会として設立した以上は、専門医を育成する学会でなければならず、その任務こそが本学会の存在意義である。しかし、育成した専門医を社会に認知させるには、その学会が日本医学会に加盟していることが当時既に必須条件とされていた。類似学会があると判断されると加盟が認められない。類似の学会は加盟を好ましく思わないであろうし、日本医学会も会の膨張を自主規制する方向にあるので、新規加盟は至難の業であった。
当時の本学会世話人一同、即ち第一世代の理事達(寺松孝、石原恒夫、岡田慶夫、尾形利郎、大田満夫、於保健吉、末舛恵一、富田正雄、仲田祐、人見滋樹、藤村重文、前田昌純、正岡昭、山口豊、渡辺洋宇、順不同)は手分けし、手弁当で日本医学会加盟学会(当時85学会)の会長を戸別訪問して加盟の賛同をお願いした。因みに人見は日本外科学会と日本移植学会の会長を訪問した。選挙当日の演説は尾形利郎先生であった。研究会の立ち上げ後、7年間で、平成3年に、見事に1回の申請で第89分科会として、加盟が認められ、奇跡的と言われたものである。現在は105分科会であり、以後の17年間で新規加盟学会は16学会のみである。
加盟申請に必要な提出書類は、目的・沿革(学会設立年,歴史的経緯等)、分科会としての独自性・存在の必要性(国内の他学会との関係・関連分野の学会名)、会員構成・会員総数・会員構成(医師,非医師の会員数,役員における医師・非医師の構成比率)・学会への会員入会資格 、学術集会(年間開催数,参加者概数)、機関誌(英文誌・和文誌の最近5年間の年間発行回数,総頁数,発行部数、ならびに査読制度の有無) 、国際性(国際学術集会の主催経験,国際学会との関連〈支部等になっているか〉、欧文機関誌の発行等) 、学会の運営状況(経理,役員構成)、定款または会則、役員名簿 、その他参考となる事項 などであった。新規加盟審査委員会で審議のうえ,日本医学会定例評議員会(1学会1名宛)において審査決定される。
かくして、平成3年に専門学会として日本医学会への加盟が認められ、社会への発言権を得たのである。

参考事項
日本医学会:創立 明治35年、当初は16学会加盟、現在 105学会加盟
日本外科学会:創立 明治32年、加盟 明治35年
日本胸部外科学会:創立 昭和23年、加盟 昭和32年
日本心臓血管外科学会:創立 昭和47年、加盟 昭和58年
日本呼吸器外科学会:創立 昭和59年、加盟 平成3年

2009年7月9日掲載